2005年12月03日
五大学共同教養講座・亜細亜大学・「現代企業社会と会社法」 第4回「開発独裁から民主化・台湾化へ」
キャンパスの眺め。
家を少し早めに出て武蔵境駅に降り亜細亜大学通りをゆっくり歩いた。この通りを3回通ううちに周囲の景色はだいぶ変わってきていた。
都会化して建物が多くなっているとはいえ並木がつづく亜細亜大学通り沿いには庭園樹や畑が見える。
亜細亜大学通り沿いの畑の先の柿の木の赤い実。
ムーバスに出合って眺めたりしながら亜細亜大学に着くと8号館の喫茶室に入った。
亜細亜大学通りで見かけたムーバス。
亜細亜大学の正門の向こうに並んでいる見事なイチョウの黄葉。
本を読もうと思っていたからである。喫茶室には女子学生がたくさんいて半分以上の席が埋まっていた。
空いた席に座ってから頃合いを見計らってコーヒーを注文した。”新しくコーヒーを作りますから3分待っていてください”と1人しかいない店員がいう。3分経ってカウンターにに行きカップを貰うと、芳しいコーヒーのにおいが立ち昇ってきた。
コーヒーを飲みながらゆっくりと「MacPeople 1 」を読む。講義の時間が近づいたので喫茶室をでて、太田耕造記念館の前を通り7号館7100教室に移動した。
太田耕造記念館。
受付で「武蔵野地域五大学共同教養講座 修了式次第」と今日の講義の資料を貰い修了式に出ることを告げ、いつもの席に座りまた「MacPeople 1 」を読んだ。
定刻になって容教授の講義が静かに始まる。
しばしの休憩を挟んで修了式が行なわれた。武蔵野市生涯学習スポーツ課長から修了証授与の後、主催者挨拶として同課長から挨拶があって全てが無事に終了した。
亜細亜大学通りからすきっぷ通りを歩いて武蔵境駅に出た。プラットホームに立つと目の前に重機が動いていて、高架線の工事はそれほど進んでいないように見えた。
プラットホームからみた重機。
いつもの通り電車に乗り、吉祥寺駅東口に降りて武蔵家の前を通り帰路についた。
今日も何事もなく無事に散歩を終えられたことを、東の空に向かって感謝した。
since 2004.12.18
亜細亜大学通り沿いの畑の先の柿の木の赤い実。
ムーバスに出合って眺めたりしながら亜細亜大学に着くと8号館の喫茶室に入った。
亜細亜大学通りで見かけたムーバス。
亜細亜大学の正門の向こうに並んでいる見事なイチョウの黄葉。
本を読もうと思っていたからである。喫茶室には女子学生がたくさんいて半分以上の席が埋まっていた。
空いた席に座ってから頃合いを見計らってコーヒーを注文した。”新しくコーヒーを作りますから3分待っていてください”と1人しかいない店員がいう。3分経ってカウンターにに行きカップを貰うと、芳しいコーヒーのにおいが立ち昇ってきた。
コーヒーを飲みながらゆっくりと「MacPeople 1 」を読む。講義の時間が近づいたので喫茶室をでて、太田耕造記念館の前を通り7号館7100教室に移動した。
太田耕造記念館。
受付で「武蔵野地域五大学共同教養講座 修了式次第」と今日の講義の資料を貰い修了式に出ることを告げ、いつもの席に座りまた「MacPeople 1 」を読んだ。
定刻になって容教授の講義が静かに始まる。
「中国を問い直す」 第4回「香港返還とその後」
香港の年表: (パンフレット)
1. 英領香港の成立
2. 避難民による経済成長
3. 民主化
4. 返還とその後
キーワード今日の講義の内容は香港についての話である。香港は容教授の生まれた国であり、熱心な講義は時間一杯続けられ非常に示唆に富んだ話があってとても面白かった。容教授は”ぜひ香港に行って見てください”とにこやかに話しを結び講義は終った。
・香港のイメージ 中国で3番目に長い河の入り口にある
始皇帝の時に既にその勢力が及んでいた
海のシルクロード
文化的に中国の一部
・英国の貿易接近 売るものが無かった 毛、綿、香辛料
中国は自国産の綿で間に合っていた
インドは不思議なことに綿を買った
三角貿易でアヘンを売るしかなかった
・アヘン戦争 英国議会は9票差で戦争を決行
賛成271票、反対262票、9票差
黄河と揚子江との間の運河を封鎖
(日本の場合には東京湾を封鎖)
・イギリス領香港 成立させた3つの条約
1842年 南京条約
1860年 北京条約
1898年 新界租借条約
明治維新以前に近代化を了していた
福沢諭吉の感想
上海は汚いしかし香港は美しい
政治 政治的権利と福祉は全く無い
英本国は福祉国家
経済 放任 義務教育無し 税金は安い
法律 英本国の法律を導入
言語 公用語は英語 後に広東語が加わる
貿易 自由、中継、加工貿易港
・日本との戦争 1931年、1937年
・香港の人口推移 1941年 160万人
1945年08月 60万人
1945年12月 100万人
1950年 236万人
1949年10月共産政権成立
食料難で中国本土に戻る
出稼ぎ 申出で住民権入手
・日本軍香港占有 軍票、日本語、神社を現在に残す
・中国に戻る機会 1945年 第二次世界大戦終結
1966年 文化大革命
香港は安全と繁栄が続いた
中国に戻ることは考えなくなった
・中国語公用化運動 1968年 広東語化したい
英語が出来るもの20%
香港に対する帰属感を強固にする
統治される人民により接近出来る
・役人に質 日本、シンガポール、香港の順
・国連の植民地リスト 1972年11月 中国の要求で削除
香港独立の道は閉ざされる
シンガポールとの違い
・香港生まれ人口 1966年 調べで 60%を越える
・中国返還の予感 1977年 香港の住宅ローン20年
中国本土は共産主義なので返還後
どうなるかの境目の年
・中英交渉 1982年サッチャー首相香港訪問
サッチャーが中国に返還を交渉
・民主化 英国は香港から光栄撤退を考える
香港を民主化することにする
1985年 初の民選議員誕生
1986年 民主民生共進会結成
・中英共同宣言 1997年7月1日正式調印
一国二制度 50年間変更しない
香港特別行政区発足
・立法院選挙 1998年5月 第1回
直接枠20人、職能別枠30人、
選挙委員枠10人 合計60人
2000年9月 第2回
2004年9月 第3回
・民主化求めるデモ 2003年7月1日 50万人規模
香港人口680万人
2004年7月 53万人規模
2005年12月 25万人規模
講義後の情報を受信
・行政長官 2005年3月10日董建華が辞任
2005年6月曽蔭権が就任宣誓
2005年10月中国政府提示
政治制度改革法案:
直接選挙導入を拒否
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Posted by koji at 22:23│Comments(0)
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